頑張らなくていい。焦らなくていい。
子供が1人、2人、3人と増えていく中で、僕の仕事中心の生き方も少しづつ、家族中心の生き方に変わっていきました。妹の出産があり、母が倒れ、娘の送り迎えに頭を悩ませながら毎日を過ごしています。昨年、病に倒れた母との会話をきっかけに、働く価値とそこにいる価値について考えています。
自分が頑張っているという評価と価値
昨年の重病で倒れて以来、母親と話す時間が増えました。夏に脳の手術を終えた母親。 いろんな問題を抱えながら、今も以前のように頑張って働こうとしています。もっと自分の体を大事にしてほしいと僕は母に言いましたが、母は今まで通り頑張ることが大事なんだと、ずっとそれまで通りそうであったように前向きに頑張ることを誇りに思っているようでした。
母親の気持ちはわかるけど、子供としては、ちゃんと自分の病気に向き合ってほしい。体を労って、少しでも長く一緒にいてほしいという気持ちが伝わらないのは歯痒いものです。
子供にとって、一緒にいてくれるというのは何にも変えられない価値なのに、母親はそれより頑張って働くことに価値を見出してしまいます。
ちょっと前の日本だったら、頑張ったら頑張っただけ成果が出て、評価されて幸せになれてたかもしれません。おそらく、父親と母親の世代だとそうだったのだろうと想像できます。
外で働いて評価される価値の方が、子供たちと一緒に過ごす時間の価値を上回っている、子供たちの幸せのために、わたしたちが外で働くことが大切だという思いだったのでしょう。そして、わたしたちが頑張ったから、あなただって幸せでしょと正当化するんだと思います。子供たちはそのことをどう思っているのかに気づかないふりをしながら。
幸せは頑張って得るものではなく、気づけばそこにあるものでいい。
人から評価されることに慣れると、アイデンティティの持ち方まで、人からの評価に依存してしまうことを20代で気づいて以降、自分の行動の軸を他人の評価から自分の直観にシフトしてきました。
できるだけ、「あるがままの心」で傷つきながら、進んできました。 自分があるがままの心でいると、他の人のあるがままの姿が浮かんでくるように思います。そして、その人を仕事で評価するのではなく、あるがままの姿を受け入れてあげたいと思えてきました。一緒にいてくれてありがとうで、僕にとっては十分です。一緒に楽しんでくれてありがとう。自分のあるがままを受け入れる中で、たくさんの人との出会いがありました。人のあるがままを受けれる中で、僕の仕事は進んできました。評価を求めて頑張る人よりも自然体の人がいい。正直でいい。
頑張らなくていい。焦らなくていい。
こんな調子で、年商0円から少しづつ進んできました。母親にも陰に陽に支えてもらいました。僕は決して彼女がしてくれたことを非難したいわけでもなくて、ただ子供として、昔寂しかったことを思い出して、母には無理しなくて、ささやかな幸せを味わってほしいと思っているだけなのかもしれません。
to U 櫻井和寿雨の匂いも 風の匂いも あの頃とは違ってるけど
この胸に住むあなたは 今でも教えてくれる
悲しい昨日が 涙の向こうで いつか微笑みに変わったら
人を好きに もっと好きになれるから 頑張らなくてもいいよ
今を好きに もっと好きになれるから あわてなくてもいいよ
限りある人生。それは母だけではなくて、僕も一緒です。誰かの評価に答えて頑張ること。生活費を稼ぐこと、もちろんそれも大事なことです。けれどもそれに気を取られすぎて、そればかりを考えることで、身近なささやかな幸せに気づけないで、この人生という名もなき旅を終えることは。
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