与えることと、受け取ること
土曜日の朝は、田んぼに行かせてもらいました。畔に立って水を見て、必要な手をかけていく。そして日曜日は、家族とゆっくり京都で過ごしました。仕事の日と、余白の日。いい週末だったと思います。
その土曜日、田んぼで除草作業をしながら、「利他」ということについて、ぼんやり考えていました。
田んぼの水は、ひとりのものではない
田んぼというのは、面白い仕組みでできています。水は高いところから低いところへ流れ、上の田を満たした水が、やがて下の田へと注いでいきます。自分の田んぼの畔を直し、水の道を整えることが、そのまま下の田を潤すことにつながっている。
つまり、利他が最初から構造の中に組み込まれているのです。誰かが「良いことをしよう」と頑張らなくても、水は勝手に、次の田へ流れていく。
会社を守るだけで、精一杯だった
正直に言うと、ここ数年の僕は、利他どころではありませんでした。なんとか会社を維持したい。その一心で続けてきた数年だったと思います。自分の田の水を守ることに必死で、下の田のことまで、考える余裕がなかったのです。
それが最近、少し気持ちに余裕が出てきて、ようやく思えるようになってきました。やっぱり、他人のことを優先してやっていくやり方に、帰っていきたい。利他というのは、僕にとって新しい目標ではなく、帰っていく場所なのだと思います。
器が小さいほど、早くあふれる
そう思えるのには、たぶん理由があります。
僕はもともと、ミニマルな幸せ主義者です。シンプルに生きることが大事だと思っていて、自分自身に必要なものは、本当に最小限でいい。そして、それ以上のものは、友人や知人、まわりの人に分け与えていく。振り返れば、そのやり方で、ここまで続けてくることができました。
田んぼの水で言えば、こういうことだと思います。自分の器が小さければ、水は早く満ちて、早くあふれる。あふれた分は、抱え込まずに、次の田へ流していく。ミニマルに生きることと、利他に生きることは、実は同じ一枚の田んぼの話なのかもしれません。
与えたものは、数字に現れないところに積もる
僕はいつでも、ギバーでありたいと思ってきました。
だから、自然栽培のこと、お茶づくりのこと、学んできたことを、情報発信というかたちで、それこそ数限りなく与えてきました。すぐに売上になるわけではありません。でも続けてきて、はっきりと感じていることがあります。そうやって与えてきたものが、経営の基盤——数字には現れない部分——を、どんどん盤石にしてくれているということです。
信頼、つながり、応援してくれる人たち。決算書のどこにも載らないけれど、会社をいちばん深いところで支えているのは、たぶんこの見えない水位なのだと思います。あふれさせた水は、消えてなくなるのではなく、地面の下で、ちゃんと僕らの田に還ってきているのです。
百点の利他は、できないけれど
とはいえ、100%の利他主義というのは、理想の上では成り立っても、実際にはなかなか難しいものです。僕らにも生活があって、やらなければいけないことがある。百点の利他は、たぶん取れません。それでも、このやり方は間違っていなかったと、今は思えています。
苦手なことも、正直にあります。たとえば草刈りのような、まわりにいい印象を与える部分。大事だとわかっていながら、どうしても後手後手になってしまいます。
それでも、誰かを助けたいと思う姿勢そのものは、たとえすぐに形にならなくても、きっと相手に届くものだと思っています。長い目で見たら、そういう姿勢こそが、いい効果を生んでいくのではないか。水がゆっくりと田を満たしていくように、時間をかけて染みていくものがあると、僕は考えています。
仕事とは、貢献のことだった
こうして考えていくと、仕事というものの正体が、少しはっきりしてきます。
結局のところ、僕らにできることは、与えることでしかないのだと思います。何かをするという行動そのものが、貢献。その中で、対価が発生するものを商売と呼び、対価が発生しないものもある。それだけの違いです。だとすれば、人生の課題は、実はとてもシンプルで、何をもって貢献するか。そして、その対価としてお金を受け取るかどうか。突き詰めれば、この二つだけなのかもしれません。
僕らの場合、お茶と米という幹は、対価をいただく貢献。情報発信や学びの分かち合いは、対価を求めない貢献。対価と交換する水と、ただあふれさせる水。その両方があって、田んぼ全体の水は、ゆっくりと巡っていくのだと思います。
そしてもうひとつ、気づいたことがあります。何かをさせていただけること、それ自体が、すでに与えられているということです。土曜日の朝、僕は「田んぼに行かせてもらった」と、自然にそう感じていました。与える側に立てること。それが実は、いちばん大きな受け取りなのかもしれません。
日曜日の京都
だから僕にとって、日曜日を家族とゆっくり過ごすことは、休みであると同時に、器に水を張る時間でもあります。家族と笑って、心が満ちてくる。その満ちた分が、週明けの仕事や、畑で一緒に働く仲間たちへの眼差しに、自然と流れていくのを感じます。
無理な自己犠牲は、どこかで畔が割れるように続かなくなります。まず自分の小さな田に、静かに水を張ること。あふれた水を、次へ流すこと。
田んぼの除草作業を無心に行っていた土曜日の朝、教わったのはそんなことでした。
今週も、まず自分の田に、水を張るところから始めたいと思います。
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